「絶望」という薬全体に公開
2006年02月22日18:42
北九州リバーウォークで開催中の「岡本太郎展」行ってきた。
http://www.riverwalk.co.jp/culture/cu_kitamu.html

岡本太郎のことは良く知らなかったが、彼女が激しい太郎好きなのでその為に北九州まで行ってきた。
岡本太郎初心者にも分かりやすく、玄人も満足する内容で、わざわざ行く価値はある。
今月26日(日)までの開催なので、まだの方は是非! お勧めです。

そこでこの言葉に出会った。
「現実の矛盾に絶望しなければ、希望など生まれない。」


座右の銘が「諸行無常」の今日この頃。
太郎の言葉は琴線に触れ、大きく響いた。

生活、人生、社会、人類の矛盾とどう向合い、無常の心中をどう生きるか?
そして、幸せを追い希望に満ち溢れたこの業界をどう捉えるのか?

そんな問いに対する「後押し」をくれた気がする。

この世に希望などない。
あるとすれば自分の中に存在する生きるエネルギー程度のものだと思う。


「Love&Peace」「スロー」「ロハス」「フェア」「エコ」
そんな言葉に同調する大きな波に何か違和感を感じ、胡散臭さを感じていた。

きっと、そこに絶望が無かったからだろう。
絶望の中からジョンが発した「Love&Peace」、田舎で質実な生活を送る「スロー」「エコ」などに感じる「ホンモノ感」は、キャッチコピーに踊らされるステレオタイプな環境、平和ムーブメントには感じない。

ムーブメントを否定するつもりもないし、裾野は少しでも広げていくべきだ。
しかし、一人でも「ホンモノ」に移行する何かを得てければいいと思う。

自分のとってのその何かは「無常」「絶望」なのかもしれない。


「私は、私にできることをする」
もっともなことだが、最近、この言葉にもちょっとお腹一杯だ。

当たり前のことを、敢えてキャッチコピーに言い直し、そのコピーに踊らされる人々。
その言葉がなければ踊れない人種にどこか嫌気がさしているのかもしれない。


これからの時代を築く人間は、エコ好きでも、平和好きでも、政治家でもない。
自分らしく生きることを求め、人生の瞬間瞬間を生き抜くことができる人だと思う。

それは、キャッチコピーに踊る人々と相反するものを感じる。

職人の考え方に一つの理想を見た。
彼らは、エコやスローなどを目指すこともなく、それに踊らされることもない。
しかし、自分の道を究める上で、自然との関係、ゆっくりでも質実な生活、地域や世界の平和の矛盾にぶつかり
職人としての生き様と、現実の矛盾に対する行動の鬩ぎあいの中で道を極める。



どんな絶望的な状況でも折れない力は、絶望の縁に立つことに始まり、
一瞬を真剣に生きる力、自分の道を極める力は、自分らしく生きることに始まるのではなかろうか。

コメント

平成の寅さん2006年02月22日 20:36
素晴君に同感。
 今日、水源のおばあが集まり、改修に向けた片付けの段取りをしてくれました。
 すごい、すごい、すごーい。
 主婦のチカラ、、ここにあり。

 あの連携プレー、アイコンタクト、発信→受信の確かさ、、。 役割分担の明確化。。。
 
 学ぶことの多い1日でしたぁ。
 おばあは『家庭料理』の職人だけでなく、『片付け』の職人でもありました。

 追伸:@新聞記事にとってもとっても喜んでましたぁ。同じ日の地方欄にアヨンちゃんの記事もちょこっと載ってるのでチェックしてみてくださ〜い。
  Aボカシ&味噌づくり、上手にできました。来月は待ってるよ〜。
いちろー2006年02月23日 00:47
なんかものすごく響いた!素晴君の思いが心でわかった。
初めて出会った翌日に宮崎に一緒に行きたいとおもったのはこれか。
うん。なんか気持ちいいです。ありがとう。
tanise2006年02月23日 02:33
小林秀雄は「絶望するにも才能がいる」って言ってました。
この「才能」はビジョンかな、と思います。
「みえている」こと、目をそらさないチカラ。
息抜きの合間に人生2006年02月23日 08:32
てっきり山田玲司のマンガかと思った。

こないだ岡本太郎について、小倉在住の徳野教授と話をしたが、岡本太郎とTAROって二人がいて、Edgeの先の先まで極めたのが岡本太郎で、メディアで変人を演じてそして民衆にアピールしたのがTAROなんだって。そんな論文書いた学生が、うちの後輩にいたらしいよ。

私は中途半端に田舎生活していますが、よく
「熊本市内に住まないの?」
って聞かれるが、
「住みたくない。いまいるとこの不便さがいい。」
って答えていますが、仮に今日死ぬようなことがあっても、今の住んでいる場所なら後悔しないことが一つ以上あるなと思ったら、やはり熊本市のような大都市で寝起きや食事はしないだろうなあ。
☆まりこ☆2006年02月23日 10:30
平成の寅さん からの紹介で日記よませていただきました。

ストレートに心に響きじーんときました。
「希望の数だけ失望や絶望が増える」と
かの有名なバンドの歌詞にしばし共感していて
確かに それも 一理あるけど
実は その逆もまたしかり
「絶望があるから 絶望を経験したからこそ 希望をもてるんですね」
それはその通りだと思います。
「苦労」があるから「達成感からくる喜び」があって
「悩み」があるから「人に共感できて理解しあえたときに感じる幸せ」があって
「病気」を経験したから「健康であることに対して無条件に感じる感謝の念」があって

きっと
いろんな
逆説で
幸せなポジティブな要素も
不幸なネガティブな要素も
成り立っているのかな

って
思います

素敵な
言葉を
ありがとうございます!
subaru2006年02月23日 13:22
「絶望するにも才能がいる」って言葉、この日本では適切な言い方かもしれないですね。
日本だけじゃないと思うけど、限界まで歪んだこの現代社会の上に立ちながらも、鈍感であり続ける。
才能がないと絶望できないほど平和ボケした世の中ということなのでしょうか。

きっと健全な人には、「絶望」というワクチンはいらないでしょう。
しかし、僕を含め多くの人々には、絶望するほどに現実の矛盾を見定める眼が必要とされているのだと思う。

後戻りも、取り返しもできない程に拡大した現代のひずみを見据える力を。
そしてそれも大きな自然の流れの一つであることを。
subaru2006年02月23日 14:41
To 平成の寅さん

田舎のおばちゃん達ってエネルギーありますよね。
たまに母親世代にもその生活する力に「すごい」と思いますが、
おばちゃん達はその上をいっている気がします。

僕もいろいろ学びたいです。もく菊池に行くしかないですかね。

> @新聞記事にとってもとっても喜んでましたぁ。
喜んでもらえるのが一番嬉しいですね。
それにしてもお世話になりました。頭があがらんです。

> Aボカシ&味噌づくり
ボカシと味噌という組合せがまたすごいですね。
来月は1日は行けると思います。


To いちろー

落ち着いたら何か企画モノをやろうぜ。
時間をかけて、同盟では何ができて、何をしたいか。
暖めるのに時間がかかるなら半年でも一年でもかけていいし。
真剣にこれをやりたいというのをやろう。
あと、竹同盟と熊本わかもの組を一緒にして、名前も変えようと思う。
みんなの遊びと企画と活動の基盤になればいいなぁ。

To tanise

> この「才能」はビジョンかな、と思います。


知識じゃないし、バイタリティでもなく、まさにビジョンだと思います。
どんな人生を送るのか、どんな環境を子どもに残すのか?
ビジョンがあっても行動力がない人も多いけど、そもそもビジョンがないことが問題ですよね。

To 息抜きの合間に人生

山田玲司ってクッシーお勧めの「絶望になちゃら・・」ってやつでしたっけ?

岡本太郎のことはよく知らないけど、民衆にアピールしていた太郎も歪みきったメディア社会に全力で切り込んでいるように見えた。
それは民衆やメディアに合わせた妥協ではなくて、本質に迫ったところで社会には殆ど届かないという絶望の中で、それでも立ち向かうという逆境を楽しんでいたように見える。

街中は生きるところじゃないけど、妥協しても死ぬところじゃないですね。
死ぬのところが選べるなら海辺の田舎がいいなぁ。
今度、死に様をテーマにした小規模の講演会しますよ。夏くらい。100人規模。

To ★まりこ★

紹介されちゃうなんてちょっと嬉しいなぁ・・・

シンプルに、苦労の後の達成感、苦悩の中のささやかな光、病気と健康・・・を実感として分かっている人は健全だと思います。

これはすごくシンプルなことなんだけど、それだけで十分だと思いました。

現代社会は、病気になっているのに、その病気に気が付かないという
根本的で致命的なところから問題なのだと思います。


コメントありがとうございます。
JOSE2006年02月23日 15:46
岡本太朗の「壁を打ち破る言葉」は数少ない僕の蔵書の1つです

> 才能がないと絶望できないほど平和ボケした世の中ということなのでしょうか。

村上春樹が「ねじまきとりクロニクル」の中で「もし私がペシミスティックだというのならペシミスティックじゃない全ての大人は馬鹿よ」って言っていたのを思い出しました

確かに昨今の「私に出来ること」のキャッチの安売りには違和感を覚えます。
正しいとか間違いとかそういうことではないのですが
subaru2006年02月23日 17:23
> 「もし私がペシミスティックだというのならペシミスティックじゃない全ての大人は馬鹿よ」

俺が悲観的と言われることがあるけど。
俺は悲観的ななんじゃなくて、ほんの少し現実的なだけだと思う。
俺が悲観的だという言うなら、悲観的でない人は・・・・

キャッチコピーの安売りね。
その言い方いいね。商品化しちゃってるもんな。
アニー2006年02月23日 18:44
subaru君へ

はじめて書き込みます☆お元気ですか?

「私は、私にできることをする」って言葉。たとえぬるま湯であっても、
その言葉に私はポジティブさを感じるよー。
一人の人間が何かを始めようと純粋に思える気持ち、
それってすごく素敵なことだと思うなぁ。

それと「当たり前」って思っていることについて。
当たり前のことって、当たり前だから口にしないんだけど、
私は時々口に出してもいいんじゃないかなぁって思うのね☆
目に見える資源だけじゃなくて、人間の命もこの世に限りあるものでしょー。私たち自身が力に満ちていないと、何も変わらないし変えられない。
だから、愛や感謝の気持ちとかいう当たり前の気持ち☆★
そういったものも時には恥ずかしがらずに口に出してを表現することって、
大切だなーって思えるの。

また、万人向けのキャッチコピーに、
私は踊らされるなら踊らされてもよいと思ってる。
↑注:対抗意識はないよ!笑。
単純に、良いことだと感じているなら素直に踊ればいいと思ってるんだぁ。
その理由は、本気であればあるこそ、
どの道一番の学びとなる気がしているから☆
踊れなくなって、疑問が目の前に立ちはだかった時、
自分が何を感じどう動こうとするのか。。。。

その答えは、私はそのときの自分に委ねててね。
それこそ岡本太郎のいう「積み減らし」精神で生きていれば、
どこかに辿り着けそうな気がしてるの。


subaru君とはちょっとしか話したことないけど、
subaru君の文章読んでてついつい書き込んじゃいました。
後半はコメントというより自分の姿勢を照らされた感がありますが・・苦笑。
               あしからずm(_ _)m

これからもよろしくねー。

subaru2006年02月23日 20:14
久しぶり!
最近はいろんな力も抜けて、生業のビジョンも固まってきて、比較的元気だよー。

ざっきーが書いてくれたコメントは、大多数の意見だと思う。
俺の周りでも殆ど人がそんな感じのことを言っている。


「私にできることをする」というのはポジティブだと思うよ。
しない人よりも、する人。
事成すにも基本は瞬間瞬間の小さな選択、小さなアクションの連続だと思う。
甘いかどうかは人それぞれだけど、「私にできること」という姿勢がポジティブであることは否定しない。

どちらかというとポジティブならいいのか?ということを問いたかった。
肯定すべきその正しさとは人によっても時代によっても違う。
自分が本気で貫ける、自分の正しさを持つために眼を開き、前提になっているこの社会の矛盾と向合うべきだと思う。


踊らされることについては、俺も意見は近くて、踊れる時に踊りたい時に踊っておけと思う。
祭は冷めた者がアホをみる。俺も踊らな損々論者!

言いたかったのは、踊らされなきゃ踊れない人について。
人の土俵じゃ踊らない頑固な人もカッコいいと思うけど、
一人でも他人の土俵でも全力で踊れる人も素敵だと思う。

さて、足元の大前提が崩れても、一人でも踊れるか?
マグナム2006年02月23日 22:51
踊るのはいいけれど
踊らされちゃイケナイと思う。

それが自分らしく生きること
かもw

アニー2006年02月24日 12:12
>ポジティブならいいのか?

んーどうなんだろうね?
私個人としては、ポジティブでもネガティブでも、
どちらもありな気がするなぁ。
どちらも本質をつかんでいるなら、同じことだと思うから。

ただ、どちらにとっても「希望」は行動の原動力になる。

極論になっちゃうけど、
私たちの先には死が控えているじゃない?
どう生きたってみんな最後は死んじゃうんだ。
そんな大きなネガティブをみんな認識して生きているわけ。
なのにどうして僕らは今を懸命に生きようとしているのだろう?
どうせ最後は死んでしまうのに。
そのこと自体不思議といえば不思議なことだよね☆
こうしてミクシィに熱く書き残したりさ。笑

ポジティブとネガティブは、
両方がセットになってはじめて機能するものかも。。。
なーんて私は思ったりするー>>


subaru君お元気そうで何よりぃ♪
歳近いのに、すごく大きな規模で物事を考えているんだね。
またチョコチョコ覗かせていただきます。

一人で踊る、みんなで踊る、ひっそり踊る、
大舞台で踊る、踊りたいから踊る、疲れても踊る、
踊るのをやめる・・・

どんなスタイルが自分に合うか、知っているのは自分だけ☆


subaru君はsubaru君なりの人生を欲張って生きてね!!


ホリック2006年02月24日 22:43
なんか、すっかりタイミングを逃してしまって…
岡本太郎の 「自分の中に毒を持て」
なかなか面白かったです。
かなり影響受けました。
subaru2006年02月27日 12:26
To ホリック

「自分の中に毒を持て」はまさやんが人生を変える程、大きな影響を受けた唯一の本です。
僕はまだ読んでませんが・・・

To マグナム
肥後には頑固な人がおおいですからね。
踊らされてたまるか!というのは、「肥後モッコス」の気質かもしれません。
それはそれで芯の通った人はカッコいいですよね。(たまにその頑固さに嫌になりますが)

To ざっきー

言いたいことは一緒かな。いかに本質を掴んでいるか。
肯定的か、否定的かを語る前に、何に対しての姿勢なのかを明確にしないと意味がないと思う。
同じような言動、行動でも、立場や視点の規模によってポジティブともネガティブとも取れることは多い。

一つの事象にも視点が違えば裏と表があり、一つの視点も肯定的な要素も否定的な要素もある。
人が社会生活の中で、捉えられる社会規模の限界を遥かに超えて、多くの事象と視点が混在しているので、
どこまで包括的に物事をとらえて、どこを目指すのか?というビジョンが重要な論点になってくると思う。


何故生きるかという「解」は感覚的には掴んでいるし、理屈としても(虚像だけど)それなりに掴んでいる。

まぁ、それは今度別記するとして、人の人生に例えるのは、意外と分かりやすいかなと思った。
「死」がネガティブな要素かどうかは別にして、いつか死ねことを認識していても、「死」をリアリティを持ってとらえている人は少ない。

マジで死ぬような思いをしたり、末期癌を宣告されちゃったりすると、「死」がリアルになって人生観まで変わってしまったりするわけだ。
日本では、未だに末期癌を宣告しない風潮が強いようだけど、死がリアリティを持って捉えられるようになってから、始めてできる生き様があると思う。

ぎりぎりまで希望を持って知らずに頑張ることも一つの道だけど、余命がないという絶望の縁に立ってから生まれる希望や哲学もある。
知らなくても希望を持っていることもある意味ではポジティブ、知って絶望してから残りの生き様を考えるのもある意味ポジティブ。

俺は哲学として、生き様として後者を選びたいと思う。
これはもう否定的か肯定的かということではなく、見定めて、覚悟する力だと思う。

人類も「いつか滅びる」「地球の環境もどんどん悪くなる」というリアリティの少ない危機ではすまない状況だと思う。
自分たちの孫、ひ孫程度のかなり短い期間に、目に見える劇的な変化が始まるし、目に見えない変化は更に進行するだろう。
余命をどうとらえるか?
そしてどの生き様を選ぶか?

最近では日本でも余命宣告することは増えてきているようだが、それも不治の病が治せる可能性が増えてきたという医学的な背景もあってのこと。
さて、根底に余命宣告しない文化を持つ日本人。。。
社会の限界性、人類の余命に対して、どう向合いますか?